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渋沢篤二が廃嫡された理由は?その後の人生や栄一との関係性について!

渋沢栄一の息子として跡取りとして期待された渋沢篤二でしたが、大河ドラマでも描かれているように栄一の期待通りとはいかなかったようです。

父・渋沢栄一が偉大過ぎたためプレッシャーを感じすぎたともいわれていますが、事実はどうだったのでしょうか?

最終的にはスキャンダルから篤二を廃嫡してしまった栄一でしたが、心の底では息子をどう思っていたのしょうか?

今回は渋沢篤二が廃嫡された理由は?その後の人生や栄一との関係性について調べてみました。

渋沢篤二が廃嫡された理由は?

渋沢篤二は1872年(明治5年)に栄一と千代との間に次男として生まれています。長男の市太郎は幼いころに病で亡くなっていたため跡取りとして期待されていました。

篤二が10歳の頃、母の千代がコレラで他界したことから大きな衝撃を受けていますが、その後は姉の歌子の家で穂積陳重夫婦に厳しく教育を受けることになりました。

篤二は文才に優れていたことから14歳の時に「龍門雑誌」を発行しており、若い頃から龍門社の社長を務めています。

学習院を経て熊本県の第五高等中学校に入学しましたが、厳しい姉夫婦から離れたことで解放されたのか自由奔放な暮らしぶりが目立ちだしました。結果的には女性問題が発端で退学し、東京で姉夫婦のもと謹慎生活をおくっています。

23歳には父の栄一の勧めにより公家の橋本敦子と結婚しました。橋本家は皇女・和宮と姻戚関係にあった名家です。

1896年(明治29年)には長男の敬三が誕生し、篤二は渋沢倉庫の社長となっています。

父・栄一が経済界での地位を確立する中、跡取りの重圧を感じた篤二は次第に趣味の義太夫、小唄、謡曲、写真などに逃れようとし始めていました。

当時、趣味の世界で自由な生活をおくっていた徳川慶喜との出会いもあり、その生き方に徐々に憧れを描くようになっています。

篤二は新橋の芸者・玉蝶と昵懇となり、家族を置いて家を出て彼女と暮らすことを選びました。栄一と歌子は篤二を何とか連れ戻そうとしますが、篤二は聞く耳を持つことはありませんでした。

結果として1911年(明治44年)にはこのスキャンダルが世間で明るみとなり、新聞に報じられることとなりました。

栄一は親族会議にて篤二を廃嫡することとなり、孫の敬三を跡取りにすることを考えました。敬三は大学生の頃で学者になることを夢見ていましたが、祖父のいうことに従い跡取りとなっています。

渋沢篤二その後の人生は?

篤二のその後の人生ですが、玉蝶と暮らし続けていました。

栄一の跡取りとなった息子の敬三は父の篤二のために白金に豪邸を建設しており、玉蝶とともに生活の面倒をみています。敬三が23歳の時に47歳の父・篤二の生活の面倒をみているのだから何とも不思議な親子に映ったことでしょう。

篤二は愛犬の世話や趣味の世界に生きることができたのです。

1931年(昭和6年)に父・栄一が91歳で亡くなり、姉の歌子が68歳で亡くなっています。篤二も翌年には61歳で生涯を閉じることになりました。篤二の晩年は病気がちな生活であったことから精神的にも安定していなかったともいわれています。

篤二の死後、渋沢家が篤二の遺骸の引き渡しを迫りましたが、玉蝶は頑なに拒んだといわれています。そして息子の敬三が玉蝶に頭を下げることとなり、やっとの思いで篤二の遺骸を渋沢家に持ち帰ることができ無事に葬儀を行うことができています。

渋沢篤二と栄一との関係性について!

篤二は経済界で地位を築き上げた栄一の存在を恐れていたともいわれています。父が偉大すぎることから跡取りの重圧に耐えきれなかったのではないでしょうか。

また、母である千代がコレラで亡くなった後に後妻として兼子と再婚していることに対して不満を持っていたとの見方もあります。

わずか10歳の子供にとって母の病死は受け入れることができなかったのでしょうが、すぐに新しい母ができたことが理解できなかったのかもしれません。

一時的には渋沢家で真面目に働く時期もありましたが、父のようになれない自分を理解していたのでしょう。結果的には趣味に逃げてしまいがちな生活をおくり、家族を置いて芸者と一緒に暮らすことを選んでしまったのです。

まとめ

今回は渋沢篤二が廃嫡された理由は?その後の人生や栄一との関係性について調べてみました。

篤二が廃嫡された理由は家族を置いて芸者と暮らしたことがスキャンダルとして新聞に報じられたことに尽きます。親族会議にて廃嫡されることになった篤二ですが、その後は息子の敬三に芸者であった玉蝶とともに生活の面倒をみてもらっていました。

父・栄一が偉大すぎたことから怯えながら生きていたともいわれていますが、母・千代と死別する時期が早すぎたのかもしれません。

結果的にが趣味に逃れたり、芸者にはまってしまったりとだらしない生活をおくる人生となってしまいました。経済的に恵まれた家系に生まれたこともあり不自由なことはなかったでしょうが父・栄一との距離は縮まることがなかったのかもしれません。

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