2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」がスタートしますが、北条義時とはどんな人物だったのでしょう。
源頼朝や北条政子あたりは小中学校の歴史で学ぶことも多かったでしょうが、北条義時については意外に知られていないことが多いです。
ドラマを楽しく見るためにもある程度の基礎知識があったほうが楽しく見れるものなので、今回は北条義時はどんな人だったのか?何をやった人?生涯についてわかりやすく説明してみます。
北条義時はどんな人だったのか?何をやった人?
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🛰BSプレミアム [2022年01月09日(日) 18:00~19:00] 60分
1175年、平清盛(松平健)が君臨する日本。伊豆では北条義時(小栗旬)がのんびり暮らしていた。しかし、源頼朝(大泉洋)が八重(新垣結衣)と恋仲になり状況は一変しpic.twitter.com/6y5ViFs8Ol— TVRecorder 地デジ(札幌)/BS/CS (@TVRecorder_) January 1, 2022
北条義時は北条時政の息子として生まれて源頼朝を支えた人でした。頼朝が姉の北条政子と結婚したことから人生は大きく変わりました。
頼朝の側で仕えて平家討伐をはじめ数々の戦にも出陣して功績を残しています。源義経を討伐するために奥州攻めも行ったといわれています。
頼朝が亡くなった後は13人の合議制の中心人物として最後まで残っていますが、13人の内紛に常に巻き込まれた人物です。
姉の政子を支えて執権として活躍していますが、北条家が実権を握る時には政権から退き隠居生活をおくっています。
執権政治の礎を作った人物として有名ですが、父との関係に悩み、義兄弟の揉め事にも巻き込まれるなど自分の立ち位置に苦しんだ人物であったことが想像できます。
また、義時を信頼して側に置いてくれた源頼朝の子供たちを滅ぼす運命にあった人物として記録に残されています。
更に詳しく北条義時の生涯についてご紹介してみましょう。
北条義時の生涯についてわかりやすく説明!
鎌倉殿の13人 主なキャスト
北条義時《主役》小栗旬
北条時政《義時の父》坂東彌十郎
北条宗時《義時の兄》片岡愛之助
北条政子《義時の姉》小池栄子
源頼朝《初代将軍》大泉洋
八重姫《頼朝最初の嫁》ガッキー
伊東祐親《八重姫の父》浅野和之
源義経《頼朝の弟》菅田将暉
弁慶《義経家臣》佳久創— スペシャルウィーク (@s_week) January 2, 2022
北条義時は1163年伊豆国の豪族、北条時政の次男として生まれます。それほど裕福ではない豪族の家に生まれました。
義時が14歳の頃に姉の北条政子が平治の乱で敗れて伊豆国に流されてきた源頼朝と結婚することになったのです。この時の頼朝は負けた武士の息子であまり有名な人ではありませんでした。
しかしながら頼朝は後に現代の総理大臣のような地位へと出世することになるのです。頼朝は30歳、政子が20歳の頃になります。
1180年に頼朝が挙兵することになり、義時も父の時政、兄の宗時とともに出陣しました。始めは優勢でしたが石橋山の戦いで大敗して兄の宗時は戦死しました。頼朝、義時ともに安房国に逃れることになります。
兄の宗時の死により義時が北条家の跡取りとして表舞台に立つことになったといわれています。
1181年に義時は頼朝の親衛隊にあたる「家子」に任命されていますが、1182年にある事件が起こります。頼朝の浮気が政子にバレてしまい、頼朝が浮気相手を住まわせた家を政子は壊してしまいました。
政子の父である時政は怒り一族を引き連れて伊豆へ帰ったといわれています。しかしながら義時だけは頼朝に仕えてその場に残ったとされています。
1185年に平家追討軍に参加して葦屋裏の戦いで活躍し、頼朝の弟である義経と平家を滅亡しました。
その後、頼朝は弟である義経の存在が邪魔になります。そして奥州藤原氏の元へ逃げ込んだ義経を討伐しようと挙兵します。その時も義時は頼朝の右腕となって働きました。
1199年義時が36歳の頃に征夷大将軍にまで昇りつめた源頼朝は亡くなります。頼朝の息子である2代目頼家はまだまだ後継者としては若くあったため、彼を支えるために13人の合議制が始まりました。その中の1人が義時でした。
しかしながらこの合議制は長く続きませんでした。内々で邪魔な人物から排除される事態となっています。その中心人物だったのが義時の父・時政でしたが、頼家まで排除して3代目実朝を擁立しました。そして将軍を補佐する初代執権に時政がついています。
しかしながら時政は身内内の揉め事から発展した畠山家討伐を指揮し、実朝暗殺計画までも企てたことから政子、義時の反感を買い伊豆へ追放されます。
その後、義時が執権として政子とともに実権を握っています。権力を握ったことで更に力をつけた義時は1209年には13人の合議制の1人であった和田義盛を討ち果たします。1218年には合議制メンバーは三善康信、大江広元だけになっていました。
そして1219年には源実朝が暗殺されており源氏の直系はいなくなりました。義時は源氏からではなく皇族将軍を擁立しようと試みましたが失敗しており、藤原頼経を4代目に就任させます。
しかしながら頼経はわずか1歳だったため、北条政子が尼将軍となり空白となっていました鎌倉殿の地位も代行しました。義時は政子を支える立場となりここから執権政治がスタートしています。
1221年に幕府と仲が悪くなった朝廷は後鳥羽上皇の元で軍備を整えていきますが、ついには北条義時を討伐する指示が全国に出ました。この戦いは武士と朝廷の最初の戦いとして「承久の乱」と呼ばれています。
朝廷からの命により北条義時討伐に動くと思われましたが、政子の力は強く京都に幕府軍19万人の武士が攻め込み1ヵ月あまりで制圧されました。
その後は幕府は朝廷を監視し幕府の力は強力なものとなっています。義時は承久の乱の翌年には全ての役職を辞職し1224年には亡くなりました。晩年は体調が悪かったのか実権を握った後はあっさりと政権を退いています。
まとめ
今回は北条義時はどんな人だったのか?何をやった人?生涯についてわかりやすく説明してみました。
北条義時は源頼朝と姉の北条政子が結婚したことで人生が大きく変わりました。義時は源頼朝に仕えて平家を滅亡に追い込んだ中心人物です。
頼朝亡き後も13人の合議制の中心人物として活躍しましたが、姉の北条政子が尼将軍となり実権を握るまで支えた人です。
しかしながら数々の内紛にも巻き込まれ、親子関係にも悩んだ人物であることか伺えます。今回、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では義時がどのように描かれるかが楽しみです。