渋沢栄一の浮気相手は大内くに?千代は妾と同居したのは事実だったのか?

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NHK大河ドラマ「青天を衝け」も終盤に差し掛かってきましたが、明治時代の偉人として有名な渋沢栄一の活躍ぶりもドラマではたくさん見ることができます。

日本の経済を作った人として数々の偉業を成し遂げた渋沢栄一でしたが、女性関係もたくさんあったようです。今と違うとはいえ、妾を認める世の中だったのですから変な世の中ではあったように感じます。

今回は渋沢栄一の浮気相手は大内くに?千代は妾と同居したのは事実だったのか?調べてみました。

渋沢栄一の浮気相手は大内くに?

渋沢栄一は大蔵省の上司である伊藤博文井上馨とともに大阪に出張した際に大内くにと出会っています。

大阪への出張の目的は金貨の製造過程を見学し、日本の貨幣制度を検討する大切な仕事であったようです。出張の夜は三井財閥の大番頭である三野村利左衛門から料亭にて接待を受け、五代友厚とも合流したともいわれています。

大内くには接待場所に選ばれた料亭で働いており、栄一は彼女と親しくなったようです。彼女は戊辰戦争で夫を亡くした未亡人でした。

その当時、大蔵卿となった大久保利通が軍事費の増額を求めていましたが、井上馨、渋沢栄一が対立していました。その時、大隈重信の計らいにより大阪に単身赴任することになったのですが、大阪で身の回りの世話をしてくれたのが大内くにだったとのことです。浮気相手というよりは愛人関係だったのではと思います。

妾(めかけ)という間柄だったのですが、当時は男が嫁とは別に妾を持つことは珍しいことではなかったようです。

栄一は堅い人柄であったと思われていましたが、妾を持つことでこんな一面もあったのだと上司の伊藤博文からプラスに評価されたこともあったぐらいでした。現代とは比べ物にならないくらい価値観が異なっていたようです。

渋沢栄一の嫁・千代は妾と同居したのは事実だったのか?

栄一は大阪の単身赴任が終わり、大内くにを東京(神田)に連れ帰ったといわれています。嫁である千代を説得して娘の歌子と同居したとのことです。

千代を説得する際に栄一は「伊藤博文や井上馨と付き合うには妾を持つことや芸者遊びをすることも必要である」と言ったようですが、これはかなり無理のある言い訳ではありました。

当時の栄一は仕事柄、出張することも多く、また接待されることも頻繁でした。至るところで女性と遊んでいたともいわれています。

大内くにの子供について!

大内くには文子、照子の2人の子供を産んでおり文子は後に千代の兄である尾高惇忠(富岡製糸場の初代場長、第一国立銀行仙台支店支配人などを歴任)の子である尾高次郎に嫁ぐことに。尾高次郎は武州銀行(現在の埼玉りそな銀行)の初代頭取に就任しています。

また、照子は富士製紙(現在は王子製紙と合併)の社長である大川平三郎へと嫁ぎました。

栄一は1882年にコレラで千代(41歳)を亡くした後に、伊藤八兵衛の娘・兼子と再婚をしていますが、武之助、正雄、愛子、秀雄の4人の子供を産みました。

兼子の父・伊藤八兵衛は水戸藩の金子御用達でしたが、当時は家も栄えており兼子は18歳の時に近江出身の婿を取って家を継いでいました。しかし、父が為替投機で失敗し、実家は没落し、夫とも離縁することになっています。

渋沢栄一は日本の経済を作った人物として知られていますが、女性好きであったことから多くの妾を抱えて多くの子供を残したといわれています。経済的に余裕があったとはいえ、女性関係ではいろいろあったようです。

まとめ

今回は渋沢栄一の浮気相手は大内くに?千代は妾と同居したのは事実だったのか?について調べてみました。

大内くには渋沢栄一の妾にあたり、栄一が大阪に転勤していた際に身の回りの面倒をみてくれた存在でした。

その後、東京の神田の自宅に戻る際には嫁の千代を説得して同居したといわれています。男が妾を持つのも不思議な時代ではないとはいえ、千代は複雑な心境だったでしょう。

日本経済を作った栄一ではありますが、とにかく女性関係ではだらしない一面があったことがわかります。

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