三浦義村は北条義時の盟友として鎌倉時代の中心人物として活躍し
表舞台ではあまり馴染みのない義村がどうしてこの時代で活躍して
今回は三浦義村と北条義時との関係?
三浦義村と北条義時の関係は?
近殿神社(横須賀市)
三浦義村公を祀る神社様♪ pic.twitter.com/LX4Ro0HgJ7
— ひらまささん。 (@hiramasa1118) July 6, 2021
伊豆の北条時政邸に来た人々。
伊東祐親:時政の義父(妻の父)
河津祐泰:時政の義兄弟(妻の兄弟)
伊東祐清:時政の義兄弟(妻の兄弟)
三浦義澄:時政の相婿(妻が姉妹)
三浦義村:義澄の子
和田義盛:義澄の甥(兄の子)
畠山重忠:義澄の甥(姉妹の子)
仁田忠常:ご近所さん?#鎌倉殿の13人— Gonza (@Gonza_Orc) January 11, 2022
三浦義村の母方の祖父は伊藤祐親にあたり北条義時とは従兄弟関係にあたりま
義時が執権時代には陰謀や謀叛が発生しそうになると探り沈静化し
義村は表舞台では名前はあまり知られていませんが、義時を陰で支えた存在として重要な人物だったことは間違いないでしょう。
北条義時を巡る重要な事件としては源実朝暗殺事件がありますが、ここでも三浦義村が陰で動いていたといわれています。
1219年には将軍実朝が頼家の遺児、
「我こそは東国の大将軍なり。戦いの準備をせよ。」
すぐにお迎えにあがると公卿に味方すると思わせましたが、
実は幕府を滅ぼすために後鳥羽上皇と結託していた実朝を暗殺しよ
口封じのため公卿は殺害されたというのが史実といわれています。
北条義時と三浦義村の関係は信頼関係があり、いかなる時も義村は義時を裏切らなかったのしょう。
三浦義村の活躍や人生について!
山本耕史さんの三浦義村いいね⤴️#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/YIOlBqzYn3
— 弾正 (@naoejou) December 5, 2021
三浦義村は1168年頃に相模の豪族である三浦義澄の次男として
1182年に北条政子が源頼朝の子を身籠もり、伊豆、
1180年には源頼朝が挙兵した際には石橋山の合戦に父・義澄と参戦しようとしましたが、
1199年頼朝が亡くなると父・義澄は鎌倉殿の13人に選ばれますが幕府内は権力闘争が続くこと
鎌倉殿の13人は頼朝なき後に将軍を支えるのが目的で作られた合議制ですが、まとまらなかったのです。
義村は梶原景時の変では有力御家人66人の連署を将軍頼家の側近、
1200年には義澄が亡くなると家督を継ぐことになり、
1213年には親族の和田氏が義時を滅ぼすために反乱を起こした
1221年承久の乱では数十万人の兵を率いて京都に攻め込み、
1224年には義時が亡くなると泰時の宿老として幕府を支えまし
1237年に将軍・藤原頼経一行として次男・泰村と上洛も果たしており、
鎌倉時代の4代将軍を支えて執権政治をも支え続けた功績は大きく長きに渡る鎌倉時代の立役者であったことは間違いないでしょう。
まとめ
今回は三浦義村と北条義時との関係?
三浦義村は北条義時とは従弟関係にあり、義時を最後まで支えた人物といわれています。また、鎌倉時代に起こりうる謀反や陰謀を突き止めて鎮静化した立役者です。
鎌倉4代将軍を支えるだけでなく、北条氏の執権政治をも支えた人物ですが、表舞台ではあまり知られていません。
北条義時にとっては信頼できる盟友であり、義村がいなければ北条義時がここまで活躍できなかった可能性はあるでしょう。