三浦義村と北条義時の関係は?運命の出会いや一生について!

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三浦義村は北条義時の盟友として鎌倉時代の中心人物として活躍しました。

表舞台ではあまり馴染みのない義村がどうしてこの時代で活躍して生き残ることができたのかを探ってみたいと思います。

今回は三浦義村と北条義時との関係?活躍や人生について調べてみました。

三浦義村と北条義時の関係は?

三浦義村の母方の祖父は伊藤祐親にあたり北条義時とは従兄弟関係にあたります。

義時が執権時代には陰謀や謀叛が発生しそうになると探り沈静化しています。義時の盟友として汚れ役に徹して執権政治を支えています。

義村は表舞台では名前はあまり知られていませんが、義時を陰で支えた存在として重要な人物だったことは間違いないでしょう。

北条義時を巡る重要な事件としては源実朝暗殺事件がありますが、ここでも三浦義村が陰で動いていたといわれています。

1219年には将軍実朝が頼家の遺児、公卿により鶴岡八幡宮に暗殺されましたが、その後、公卿は義村に戦いの準備をするように書面を送ったとされています

「我こそは東国の大将軍なり。戦いの準備をせよ。」とあったと記されています。

すぐにお迎えにあがると公卿に味方すると思わせましたが、討伐兵を送り、公卿は義村の邸宅まで逃げ延びたものの義村に会うこともなく殺害されました。

実は幕府を滅ぼすために後鳥羽上皇と結託していた実朝を暗殺しようと公卿をけしかけたのは義時と義村だったのですが、公卿には味方することはなく殺害しています。

口封じのため公卿は殺害されたというのが史実といわれています。

北条義時と三浦義村の関係は信頼関係があり、いかなる時も義村は義時を裏切らなかったのしょう。

三浦義村の活躍や人生について!

三浦義村は1168年頃に相模の豪族である三浦義澄の次男として生まれました。

1182年に北条政子が源頼朝の子を身籠もり、伊豆、箱根の寺社に安産祈願に使者として参詣しています。

1180年には源頼朝が挙兵した際には石橋山の合戦に父・義澄と参戦しようとしましたが、酒匂川が大雨で氾濫し参戦できなかったと記録に残っています。

1199年頼朝が亡くなると父・義澄は鎌倉殿の13人に選ばれますが幕府内は権力闘争が続くことになります。

鎌倉殿の13人は頼朝なき後に将軍を支えるのが目的で作られた合議制ですが、まとまらなかったのです。

義村は梶原景時の変では有力御家人66人の連署を将軍頼家の側近、大江広元に差し出し景時を失脚させました。

1200年には義澄が亡くなると家督を継ぐことになり、1205年には畠山重忠の乱では北条時政の後妻、「りく」の女婿、平賀朝雅に言われ重忠と嫡男・重保を殺害。

1213年には親族の和田氏が義時を滅ぼすために反乱を起こした際は義時に味方して滅亡しています。

1221年承久の乱では数十万人の兵を率いて京都に攻め込み、後鳥羽、土御門、順徳の3上皇を島流しにして、後堀河天皇を擁立しています。

1224年には義時が亡くなると泰時の宿老として幕府を支えました。

1237年に将軍・藤原頼経一行として次男・泰村と上洛も果たしており、1239年には逝去しました。

鎌倉時代の4代将軍を支えて執権政治をも支え続けた功績は大きく長きに渡る鎌倉時代の立役者であったことは間違いないでしょう。

まとめ

今回は三浦義村と北条義時との関係?活躍や人生について調べてみました。

三浦義村は北条義時とは従弟関係にあり、義時を最後まで支えた人物といわれています。また、鎌倉時代に起こりうる謀反や陰謀を突き止めて鎮静化した立役者です。

鎌倉4代将軍を支えるだけでなく、北条氏の執権政治をも支えた人物ですが、表舞台ではあまり知られていません。

北条義時にとっては信頼できる盟友であり、義村がいなければ北条義時がここまで活躍できなかった可能性はあるでしょう。

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